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2007.10.31 |
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日本の餅文化起源仮説…たいした知識がなくても、ちょっとした資料さえあれば、じっくり考え抜くことで、シナリオを描くことができる筈。もっとも、質的にシナリオと呼ぶレベルではないかも知れぬが、とにかく、仮説をたてることは可能だ。一方、山のように資料を収集し、様々な観点から分析しても、新しい仮説が生まれることは稀。時間をかけても、たいていは、陳腐な提起に終わる。 もしも、本気でイノベーションを狙いたいなら、分析の方法論の実習ばかりせず、仮説作りの経験を積む必要があろう。 たまには、古代を題材にして、頭を使ってみるとよいのではなかろうか。 古代史の解釈に正解などないし、素人なら突飛なことでも体面を気にせず語れる。しかも、限られた資料しかないから、仮説作りの練習をするのに最適な題材だと思う。 例えば、こんなふうに、・・・ . 滋賀県に小野氏の先祖を祀っている神社がある。そこでは、日本で初めて餠つきを行なったことで、名前を贈られた米餅搗大使主命が一緒に祀られている。俗に言えば、お餅の神様。今でも、11月2日には、お餅の原型と言われる「しとぎ(粢)」を作って神に捧げるお祭りが行なわれている。(1) . 「しとぎ」の製法自体は、単純である。 よく洗って一晩水に浸したもち(糯)米を、杵ですこしづつ搗く。十分な粘りが出てきたら、臼から取り出して板状に伸ばし、これを、手で千切って丸め、稲藁の苞に入れるだけ。(2) これを、縄に下げるのである。神社内ではなく、外の道で。 コレ、そう難しい作業ではないらしいが、餅搗きには慣れが必要なようだ。 尚、「しとぎ」という名前の由来はわかっていないが、白い米を研ぐという語感がする。 ところで、米餅搗と言う名前は、応神天皇(品陀和気命[ほむだわけのみこと])、が贈ったとされている。古事記には、当時の社会状況がわかる記述があるので、現代語訳で見てみよう。 “新羅の国の人がどっさり渡って来ました。武内宿禰はその人々を使って、方々に田へ水を取る池などを掘りました。”(3)天皇のリーダーシップで、海外の技術を取り入れて生産性を急激に高め、水稲農業国への道をひた走り始めたということだろう。 さらに、百済の王が “和邇吉師という学者をよこしてまいりました。”とある。儒教などの大陸文化を、朝鮮半島経由で、積極的に導入を図ったのだ。そうそう、小野神社は、JR和邇駅から入ったところにある。. 古事記には簡単に書いてあるが、グローバル化を一気に推し進め、国の経済基盤を変える荒療治を行なったということである。改革には1世紀を要したようだ。 わざわざ「米のお餅を搗く」という名前を与えたりしたのも、なにか、特別な意義があったに違いない。 と思って考えると、「しとぎ」とは、日本で発明したもの、という気になってくる。 つまり、先進的な稲作技術を全国に広めると同時に、採れたお米を使って「しとぎ」を作り、神に奉げる儀式も広めたということ。お米による、全国統一である。 従って、「しとぎ」には日本の伝統を受け継ぐ独自性があったに違いないのだ。中国や朝鮮にも餅はあるが、それと類似では属国になってしまうからである。 これこそ、日本の米信仰の内実を解く鍵だろう。. と言うことで、海外を眺めてみよう。 まず中国だが、こちらの餅は小麦粉製。しかも神饌の形態としては、餅よりは、饅頭だ。饅頭も、日本では行事食の一角を担っている。 一方、朝鮮半島では、中国とは違い、餅には麦でなく米が使われる。韓国では、今でも、行事用に様々な色をした餅が登場する。(4)そのため、日本と同根の文化に見える。 しかし、両者ともに日本の餅とは大きく違う点がある。原料が粉なのである。しかも、その粉を練ってから、加熱する。 ところが、「しとぎ」は米粒のまま。そして、非加熱。 粉に加工しないから、えらく原始的な感じはするが、粉にできなかった訳ではなかろうし、加熱技術が無いとも思えない。それに、「しとぎ」作りにはえらく手がかかるのだ。日本の餅は、そこまで、米粒の生に拘ったということである。 何故、こんなことをしたかと言えば、日本の自然神信仰では、無垢を尊ぶ。火は忌み嫌われたに違いない。火を使う神饌はご法度だったのだと思われる。もしかすると、日本人の祖先は生の米を食べていたのかも。 これ以前は、米は他の作物と一緒に栽培されていたと思う。それを、白いお米の単一栽培へと転換したのだ。 「しとぎ」の登場が、この原動力となったに違いない。加熱無しで白い餅状の食品を作ってお供えすることが、何にもまして重要に映ったからこそ、大転換が可能になったのだと思われる。
しかし、重要なのは、あくまでも、もち米を使うという点。稲作は相当以前から、主流はもち米ではなく、生産性が高いうるち米に変わっていた筈。しかし、神饌は、あくまでも白色のもち米だったのである。 韓国の餅には、おそらく、そんな決まりはなかろう。うるち米が入っても、餅は餅といった感覚の筈だ。源流が違うのである。 日本の行事では、餅の他に、饅頭と団子が登場するが、それぞれ、仏教供物とお祝い食から発展したものと思われる。日本古来の風習を引き継いだものではない。 饅頭は小麦粉製品であり、これは輸入文化。一方、うるち米の粉からつくる団子は、民俗的な行事での餅の代わりにつかった略式供物と見てよいのではないか。 多分、団子は、うるち米の屑米活用から始まったのだと思う。 うるち米の一級品は上納用。その下が一般食用。壊れ米は米粉にして使い、それ以下は飼料にしかなるまい。米粉は持ちが悪いから、収穫後のお祭りで消費するしかない。これが団子だ。神饌の餅とは格が違う。 ただ、神社と寺が同居するようになり、火の禁忌も解け、うるち米の生産性も飛躍的に向上し、仏教的行事のお供物が、小麦粉からうるち米粉に変わった筈。そうなると、どうしても、餅、団子、饅頭が混在してしまう。 現代にも脈々と受け継がれる、餅文化だが、それは応神天皇が、産業構造の大転換をはたすために、伝統信仰にのっとり、新たに作りあげたものではないだろうか。 --- 参照 --- (1) http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/248.html (2) 亀井千歩子: 「日本の菓子 祈りと感謝と厄除けと」 東京書籍 1996年 (3) 鈴木三重吉: 「古事記物語」 “宇治の渡し” [青空文庫] http://www.aozora.gr.jp/cards/000107/files/1530_5502.html#chap14 (4) http://www.lifeinkorea.com/culture/ricecake/ricecakej.cfm?Subject=origin http://www.lifeinkorea.com/culture/ricecake/ricecakej.cfm?Subject=types (稲の本) 柳田國男:「稲の日本史(上/下)」 筑摩叢書 1969年、 藤原宏志: 「稲作の起源を探る」 岩波新書 1998年 (臼と杵の写真) (C) studio md http://studiomd.jp/index.php (磯辺焼きのイラスト) (C) Hitoshi Nomura “NOM's FOODS iLLUSTRATED” http://homepage1.nifty.com/NOM/index.htm --- 追記 (米の粉の種類) --- [参考: http://www.komeko.net/img/handbook.pdf] ウエブには解説が沢山あるが, 矛盾した記述が多い. 以下は勝手に整理してみただけ. 当然ながら, 間違いもあろう.. 【もち(糯)米】 生粒をそのまま挽く. ・荒目粉-餅粉 ・粗目粉-上餅粉 ・中目粉-大福粉/求肥粉 ・細目粉-羽二重粉 ・水挽後挽-白玉粉 生粒を蒸してそのまま乾燥させる. ・糒(ほしい) 糒を砕く. ・散-荒道 ・荒-道明寺粉 ・粗-微塵粉 ・細-極微塵粉 砕いた糒の粉を焙煎する. ・荒-上早粉/糯煎粉 ・細-落雁粉/白落雁粉, 上南粉/寒梅粉 【うるち(粳)米】 生粒をそのまま挽く. ・荒目-新粉 ・粗目-上新粉 ・中目-上用粉 ・細目-極上上用粉 ・微目-微粉米粉/Riz Farine 生粒を蒸して乾燥させ挽く. ・うるち上南粉 さらに焙煎する. ・並早粉 【もち(糯)米/うるち(粳)米の粉ブレンド】 ・団子粉 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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